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宇都宮一族・芳賀高武“お家再興”に懸ける 関ケ原の前年、三成家臣に 関ケ原も出陣? 栃木県立博物館の調査結果で判明

2017.9.1 11:25

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 戦国時代、豊臣秀吉によって取り潰された関東の名家・宇都宮氏の一族、芳賀高武が“お家再興”の可能性を懸け、関ケ原の戦い(1600年)の前年に石田三成の家臣となり、佐和山城(滋賀県彦根市)に入っていたことが、県立博物館(宇都宮市睦町)の調査で分かった。これまで知られていなかった関ケ原出陣の可能性もある。

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 司馬遼太郎の小説「関ケ原」を原作とした映画が公開され、主人公の三成に注目が集まる中、史料からは宇都宮氏再興の動きに三成が関与したという意外な一面が見え、同館学芸部長の江田郁夫さん(56)は「冷徹なイメージの三成だが、意外と面倒見が良く、また武闘派の高武を召し抱え、1年前から徳川家康との戦いを意識して動いていたことも分かる」と話す。

 同館によると、宇都宮一族に関する企画展を準備する中で、伊勢神宮の神官、佐八(そうち)氏による「下野国檀那之事(だんなのこと)」を調査、当時の宇都宮一族の動向が分かった。佐八氏は地方との取り次ぎ役を務め、宇都宮氏との関係は深かった。

 宇都宮氏は鎌倉幕府成立にも功績がある名家で、戦国時代も生き抜いたが、養子受け入れをめぐる内紛があり、1597(慶長2)年、全ての領地を没収。宇都宮国綱やその弟で有力家臣の養子となった高武は浪人となった。他家の部隊で朝鮮出兵に従軍、戦功による再興を目指したが、秀吉の死去で機会を失った。

 「下野国檀那之事」によると、1599(慶長4)年、帰国した国綱は家来60人を連れてお忍びで京都へ。高武については「芳賀殿ハ折節石田治部少輔殿ヘ御扶持人ニ御出候、近江国佐保(和)山ト云城ニ御入候…」とあり、江田さんは「国綱は京都、大阪で家康への接近を図り、高武は三成の家臣となって別のルートで宇都宮氏再興を目指した」と説明。国綱や高武が伊勢神宮に出した願文など当時の史料とも整合する。

 当時の三成は、秀吉や前田利家の死去で後ろ盾を失い、諸将との対立で中央政界を追放されていた時期。高武はあえて三成に賭け、三成も家康との対決を見据え、「武功もよのつねならぬ」(秋田藩家蔵文書)と評された高武に期待した。

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 家康に対抗して多数派工作に尽力した三成だが、関ケ原では裏切りや様子見の部隊も多く、奮戦したのは自身の家臣団や一部の武将だけだった。高武が関ケ原に出陣した記録はなく、死去するまでの12年間の動向は不明。だが、江田さんは「この時期に仕官した目的を考えれば、戦いを前に離れるのは不自然だ。関ケ原で奮戦した可能性もあるのでは」とみている。

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【用語解説】芳賀高武(はが・たかたけ)

 1572~1612年。宇都宮広綱の三男。宇都宮国綱の弟。宇都宮氏の有力家臣、芳賀高継の養子となり、後を継ぐ。下野・真岡6万石領主。兄・国綱に豊臣政権重臣・浅野家から養子を迎える話が持ち上がると強硬に反対、宇都宮家の受け入れ派家臣を攻め、この内紛で宇都宮、芳賀氏は取り潰しとなった。子の高成は水戸徳川家に仕えた。

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【用語解説】石田三成(いしだ・みつなり)

 1560~1600年。石田正継の次男。幼名・佐吉。豊臣秀吉の小姓(秘書、親衛隊役の少年や若者)から側近に取り立てられ、五奉行として豊臣政権を取り仕切った。近江・佐和山19万石の領主。

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